『「反日」・「親日」』という言葉から考える「単純化」の危うさ

 こんにちは、ごんばんは。

 

 今回も非常に衝動的にこのブログを書き始めています。書き始めたこの段階では正直どれくらいの文章量になるのか、僕にもわからないです。さて、この『「親日」・反日』という言葉について取り上げたのも、衝動的な面が非常に強いです。つまりは、このブログ自体が衝動性の塊のような物なのです。しかし、まがりながりにも「文章」として皆さんにお見せするのですから、感情をできるだけ抑えてできる限り多くの方に僕の考え方なり、思考回路なりを知って頂きたいと思います。このブログの読者の方から意見を頂き、自分の考えをさらに深め、もしできるなら読者の皆さまにも双方向のやりとりを通じて、何らかの示唆を提供することができたら、と思っております。

 

 僕は中国語が話せるので(旅行であまり困ることがない程度には)、友人・知人に「中国に行かない?」と冗談ですが、話すことがあります。返答は概して「えっ?中国?」や「反日だからイヤ」という意見があります。そこで「じゃあ、台湾に行こう。」というと、「美人多いからいいよ」(笑)という意見や、「食べ物おいしそうだからからいいよ」などの意見に混じって、「台湾は親日っぽいから」という意見も聞きます。僕は留学に行く以前から、留学から帰ってからはなお強くこの「反日」・「親日」という言葉がはらんでいる「曖昧さ」に危機感を持っています。今回は、僕が抱えている「曖昧さ」への危機感を説明し、さらに現代日本の「排除」に視点を移し、最後に「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」(原文はドイツ語)という詩を紹介して、今回は構成しようと思います。

 まず、僕の考える『「反日」・「親日」』という言葉の「曖昧さ」について説明しようと思います。僕がこの2つの言葉がとても「日本語らしい」と思うのはこれらの言葉が「高コンテクスト」な単語だということです。「高コンテクストコミュニケーション」というのは、言語学の言葉で『人間関係や社会習慣など、言語メッセージ以外に依存する傾向が強いタイプのコミュニケーションを指します。詳しく説明しなくてもお互いにわかりあえる、いわば「察しの文化」です。』(株式会社リンクグローバルソリューションHPより)つまり、この言葉が指している「反日」(あるいは「親日」)的な行動はどんな行動なのか、誰が行う行動なのか、個人的な行動なのか、集団的な行動なのか、定義が「曖昧」です。もちろん、「そのすべてを包括した概念となっている」とも言えるのですが、ここまで曖昧だと先ほどの「人間関係や社会習慣など、言語メッセージ以外に依存」する割合が極めて高くなります。「言語メッセージ以外」というと、例えば周囲の人間関係、育った文化、現在の経済状況などの要素によって、1人1人の人の「反日」・「親日」という言葉への解釈は全く異なってくるのです。

 

中国人は「反日だ」と言われます。でも、僕は日本でも、中国でも「日本に来たい。日本で勉強したい。」と言ってた中国人を知っています。

台湾は「親日だ」と言われます。台湾に行くと、多くの方が日本人に非常に良くしてくれます。一方、台湾政府は尖閣諸島を自国の領土として主張しています(参考資料

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/pdfs/senkaku.pdf)

 

 僕は、台湾政府や中国政府の方針をどうこう言いたいわけではありません。僕が真に言いたいのは、「反日」・「親日」という言葉がとても「曖昧」で客観性のない使い方をされている言葉だと感じる、ということです。同時に強い危機感を覚えます。これらが与える強い印象によって、一つの国家、地域、民族が持つ多様性が不可視なものになってしまう、と思うからです。一つの国家、地域、民族を一つの言葉で単純化して見てしまうことは、それらが持っている多様性を見えなくしてしまいます。その結果、ステレオタイプな見方が定着し、多様性は消えてしまう、「排除」されてしまいます。以下では、この「排除」は私たちの身近にも潜んでいることについて言及したいと思います。

 

 「非正規雇用」という言葉もある種の排除だと思います。『「正規」ではない』という意味なのですから。「ナマポ(生活保護受給者)」という言葉もインターネット上で使われますし、インターネット上だけでなく、一般市民の生活保護を受給されている方々への目も厳しくなっていると感じます。ただ、皆さんに考えてほしいと思います。今や非正規雇用者の割合は全雇用者の40%を超えました。また、日本の現在の世帯数は約5000万世帯(「平成26年 国民生活基礎調査の概況」より)生活保護を受給している世帯は約163万世帯(「生活保護受給 163万世帯 過去最高に」より)なので、全世帯の約30%にも上ります。これらからも分かるように、社会から「排除」される、スミに追いやられる立場になるということは決して他人事では「決して」ないのです。生活保護に関する報道などの影響からか、「反日日本人」なる言葉もインターネット上では言われることがあります。「ナマポ(生活保護受給者)」や「非正規」という言葉も聞いた時の印象が強く、1人1人の持つ多様性を簡単に無にしてしまいます。「反日」・「親日」と同じ、「単純化」の性質を強く感じる言葉です。

 

 以上のことを踏まえて、私が言いたいことは多様性を念頭において行動することは、国際関係だけでなく、僕自身や読者の皆様1人1人を守るということです。逆に「単純化」を過度に行えば、国際関係だけでなく、自分の身を危うくする、ということです。私たち(特に同年代の若い世代)に求められるのは、多様性を基調とした「想像力」と「創造力」の発揮であると僕は考えます。

 

お読みいただき、ありがとうございました。以下は、反ナチ運動の指導者が書いた有名な詩です。是非ここに載せたいと思います。今回も分かりにくかったところ、蛇足であったところ、突拍子もなかった所等あったと存じます。それらに対するご指導、記事に関するご感想等お待ちしております。

 

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

 

(ウィキペディア「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」より抜粋)