「留学に行くことの意義」とはどういうことでしょうか。 part1

www.youtube.com

こんにちは、こんばんは。

 相変わらず、どんな方が見てくださっているのかわからない(facebookにリンクを貼っていますので、僕の知り合いの方が多いかもしれませんが)ブログを書いていきたいと思っています。

 今回から数回は「留学に行くことの意義」ということについて考えていきたいと思います。

 これは、若干(?)発達障害気味のところがある僕の頭の中に常にあるテーマのようなものです(これからもそうであり続けると思います)。僕と同じような症状とお持ちの方はご理解いただけるかもしれませんが、僕の頭の中では常に複数のテーマが思考されていて、全く論理建てられず思考されています。この状態は、ちょうどバックグラウンドで多くのアプリケーションが動いているスマホの状態と似ていて、意識されずに活動している部分が多いと、いざ脳を動かして活動しようとするときに使えるキャパシティーが著しく不足している、という現象がよく起こります。つまり、私にとってこのブログを書く、ということは私個人にとっては自分の思考を整理し、さらにブログを見てくださっている皆さんと思考を共有できるという素晴らしい方法と言えます。もっとも、このブログを見てくださっている皆さんにとって価値があるものになるかは分かりませんが…、多くの方がこのブログに興味を持っていただけると幸いです。

閑話休題

話が脇道にそれました…。これからもこのようなことはよく起こると思いますので、ご注意ください。それでは、話題に入る前に冒頭の動画のリンクをご覧ください。10分程度の動画ですので、すぐ見えると思います。

 

 

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

皆さんはどう感じられましたか?戦後60周年の年のことですので、もう十年前の番組となっています。胸に去来するのはどういった感情でしょうか。悲しみ、怒り、憎しみなど様々あると思います。「そういった感情を持たないで欲しい」と私は思いません。もしろ、日本人であれば「何も感じなかった」とはおっしゃって欲しくないと思います。ちなみに、この映像を見たであろうダウンタウンの松本さんはラジオ番組で号泣しながら怒ったそうです。それも、極めて人間らしい反応だと思います。

 

読者の皆さまの中には、『「原爆」と「留学」はどのように関係があるのか、よく分からない』と仰る方がいらっしゃるかもしれません。以下は、その疑問について考えたいと思います。

 先の動画の中で皆さまはどの部分が印象に残りましたでしょうか。私は、被爆者の方と原爆を「開発・投下・撮影」した博士の対談の部分でしょうか。全体的に画面の中にいる三名の話はかみ合っていません。私は、この対談は非常に意義深いもの、一つの兵器の開発者と被害者が対話をすることができたという意味で、だと考えていますが、コミュニケーションが上手くはいっていなかった、と思います。この「コミュニケーション」は「The imparting or exchanging of information by speaking, writing, or using some other medium」(oxford english dictionary)と定義されています。つまり、「言うなり、書くなり、他の何らかの方法を用いて、情報を伝えたり、交換したりすること」となります。この「コミュニケーション」は「留学」について考えるとき、とても重要だと考えています。この動画は異なる歴史的、文化的、教育的背景を持った人々が一つの価値を共有することがどれだけ難しいか、ということについて。ましてや双方とも加害者であり、被害者である状況ではさらに難易度が増すことを示していると思います。

「留学」という言葉からは、この「コミュニケーション」というイメージはなかなか浮かんできません。日本での「学び」が「コミュニケーション」とリンクする言葉として認識されていない背景もあるかもしれません。しかし、留学に行ったからといって生活リズムが変わるわけではありませんし、私たちが日常行う買い物や雑談等の行動は依然として留学生活に存在します。どれだけ勉強する人でも、一日数時間はそれら大小の規模の「コミュニケーション」を行う機会があると思います。異なる歴史的背景、文化的背景を持てば、異なる価値観が生まれます。その「価値観の交換・伝達」が僕のいう「コミュニケーション」なのです。「JAP」としての日本、「日本鬼子(中国で使われる日本人への蔑称)」、「YELLOW」(黄色人種)などの価値観を相手から提示された時、私達が国内では触れることが極めて少ない「侵略者」としての日本の姿を提示された時、日本語であろうが、中国語、英語、フランス語などの外国語であろうが、またその口調が流暢であろうが、たどたどしかろうが、意見を正しく伝達し、相手の価値観と自分の価値観を交換することが「コミュニケーション」の本質です。

 こうした日本ではなかなか触れることができない、意見や価値観に触れる経験をすることが語学などの測定可能な結果と時には並ぶほど重要な意味を持ってくると思います。語学力、言語能力はあくまでそれらを伝える「道具」にすぎないのです。

 

 今回は、「価値観」、「コミュニケーション」というキーワードから「留学に行くことの意義」について考えました。まだまだ書き足りていないこと、説明不足なことはあると存じますが、コメントでご意見を頂ければ幸いです。