「留学に行く意義」とはどういうことでしょうか?part2

 こんにちは、こんばんは。

 

 間を開けてしまいましたが、「留学」特にその「意義」について考える記事を書こうと思います。実を言えば、僕は「留学」という手段を使わなくても、全く問題ないと考えています。なぜなら、僕の所属している大学は小さな国立大学ですが、それでも留学生の数は少なくありません。中国人、韓国人、台湾人、ヨーロッパの人、アフリカ(エチオピアなど)、グルジアアイスランドなど、僕にはどんな暮らしをされているのかほとんどイメージできない方もいます(またはいました)。このような「小地球」ともいえる状況が地方の国立大学にもあるのですから、大都市圏や農村でさえも、気の合う外国の方を何人か見つけることは決して難しくないと思います。一つ、ないし複数の文化を理解するということは日本国内でもできることですし、実際にそのような方々をとても尊敬しています。言語に関してもそうです。ある程度の収入があれば、語学教室に通うことは容易ですし、ネット上にも語学学習のためのたくさんのリソースがあります。youtuberの皆さんが配信している動画には、一般的に日本語の字幕がついていますので、ある程度のレベルになれば、それらを通じて語学の勉強をすることは難しくないと思います。

正直に言うと、僕は「留学」ということが必要以上に賛美されている気がしてならないのです。「留学に行って人生が変わる」、「価値観が広がった」などの言葉は、留学を語る際によく用いられますが、「価値観が広がった」は僕も時々用います。この言葉を使うとき、僕はとても恥ずかしくなります。なぜなら、「自分は留学に行く前努力をしませんでした」「自分は以前矮小な価値観しかもっていませんでした」と大声で叫んでいるようなものだからです。もちろん、僕なりに考え、悩み、留学するという決断をしたことは確かです。「留学する」という決断を下したことには一つの後悔もありませんし、留学期間でした経験についても紛れもなく僕の人生の宝物であると思っています。ただ、留学以前に乏しい価値観しか持っていなかった自分とのジレンマは今でも抱えています。自分は「留学」という行為に値する人間だったのかどうかいまだに思うことがあります。また、留学というのは、1つの方法でしかありません。ただの人生の選択肢の1つです。あらゆる人生の選択肢(例えば、~の高校に行く、~の会社に就職する、~の大学院に進学する、~フリーターになる、~の本を買うなど)のただの1つにしかすぎないと考えています。「留学」という選択肢の価値だけが過度に重要視されることは「おかしい」と僕は思います。「就職」も「大学院」も「フリーター」もすべての選択肢が等しい価値を持っています。どの選択肢が悪く、どの選択肢がいいということはないと思います。私たちは常にカードを持って「人生」というゲームをしています。その中の1つに「留学」というカードがある、ただそれだけの話です。なので、行っても、行かなくてもいいと思います。日本という国の中で留学中にすることの大半は経験できると思います。

 

 さて、私は留学に行きました。先述したようなジレンマを抱えながらも、「留学に行く」という決断をしたことに後悔はありません。ここからの意見には、きっと賛否両論あろうとは思いますが、僕なりに留学に行く意義についてまとめたいと思います。僕の考える「意義」は『「留学目的外」の部分で学べる事が大きい』ということです。「留学目的(目標)」は、日本で「留学で成功するために」というようなサイトでは必ず見られる言葉です。曰く、「留学目的を強くも持とう」、「目的のない留学は失敗する」のような言葉はよく見られます。特に日本人は本当にまじめなので、「留学目的(目標)」を強く意識します。そして、それを遂行しようと一生懸命に努力します。それが「成功する留学」だと信じているからです。もちろん、何事にも目的は重要です。計画も重要です。自分のモチベーションにつながります。しかし、それを過度に意識しすぎ、自分の行動を制限してしまわなくてもいいと思います。中国語を勉強しにいっていても、英語で話せばいいんです。英語でコミュニケーションが取れるのならば。いろんな人と仲良くなれれば、それだけ文化的な違い、価値観の広がりを実感することができます。「留学目的」というのは、日本にいるときのあやふやなイメージでつくられるものです。現地の生活はその「イメージ」と相違点が必ずあります。また、その相違点は自分の経験となります。留学に行く際は、それらの相違点や「留学目的」外の部分や「勉強」以外の時間を大切にしてほしいと思います。常にアンテナを張りながら、現地の様々な文化、「イメージになかったこと」を吸収することは、留学の意義について考える上で重要だと考えます。

 

 僕がこのようなことを書くのは、日本人は大変、真面目すぎるくらい真面目なので、「留学目的外」の部分について考える人が少ないと思ったからです。また、ネット、メディアが発達し、「留学に行く意義」をただ単に「学習」に求めるだけでは「意義」として不十分だと考えました。「なぜあえて留学に行くのか」について考えるうえで、「留学目的」という概念を持ち出し、自分の想像したものと違うものを受容する「柔軟性」とでもいうのでしょうか、それが得られることが「意義」の1つとして挙げられると考えました。

 

 今回も読みにくい部分等有るかと存じますが、ご指摘、ご感想、反論等も受け付けております。皆さんからのご意見をいただくことがこのブログの存在理由でもありますので、よろしくお願い致します。

『「反日」・「親日」』という言葉から考える「単純化」の危うさ

 こんにちは、ごんばんは。

 

 今回も非常に衝動的にこのブログを書き始めています。書き始めたこの段階では正直どれくらいの文章量になるのか、僕にもわからないです。さて、この『「親日」・反日』という言葉について取り上げたのも、衝動的な面が非常に強いです。つまりは、このブログ自体が衝動性の塊のような物なのです。しかし、まがりながりにも「文章」として皆さんにお見せするのですから、感情をできるだけ抑えてできる限り多くの方に僕の考え方なり、思考回路なりを知って頂きたいと思います。このブログの読者の方から意見を頂き、自分の考えをさらに深め、もしできるなら読者の皆さまにも双方向のやりとりを通じて、何らかの示唆を提供することができたら、と思っております。

 

 僕は中国語が話せるので(旅行であまり困ることがない程度には)、友人・知人に「中国に行かない?」と冗談ですが、話すことがあります。返答は概して「えっ?中国?」や「反日だからイヤ」という意見があります。そこで「じゃあ、台湾に行こう。」というと、「美人多いからいいよ」(笑)という意見や、「食べ物おいしそうだからからいいよ」などの意見に混じって、「台湾は親日っぽいから」という意見も聞きます。僕は留学に行く以前から、留学から帰ってからはなお強くこの「反日」・「親日」という言葉がはらんでいる「曖昧さ」に危機感を持っています。今回は、僕が抱えている「曖昧さ」への危機感を説明し、さらに現代日本の「排除」に視点を移し、最後に「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」(原文はドイツ語)という詩を紹介して、今回は構成しようと思います。

 まず、僕の考える『「反日」・「親日」』という言葉の「曖昧さ」について説明しようと思います。僕がこの2つの言葉がとても「日本語らしい」と思うのはこれらの言葉が「高コンテクスト」な単語だということです。「高コンテクストコミュニケーション」というのは、言語学の言葉で『人間関係や社会習慣など、言語メッセージ以外に依存する傾向が強いタイプのコミュニケーションを指します。詳しく説明しなくてもお互いにわかりあえる、いわば「察しの文化」です。』(株式会社リンクグローバルソリューションHPより)つまり、この言葉が指している「反日」(あるいは「親日」)的な行動はどんな行動なのか、誰が行う行動なのか、個人的な行動なのか、集団的な行動なのか、定義が「曖昧」です。もちろん、「そのすべてを包括した概念となっている」とも言えるのですが、ここまで曖昧だと先ほどの「人間関係や社会習慣など、言語メッセージ以外に依存」する割合が極めて高くなります。「言語メッセージ以外」というと、例えば周囲の人間関係、育った文化、現在の経済状況などの要素によって、1人1人の人の「反日」・「親日」という言葉への解釈は全く異なってくるのです。

 

中国人は「反日だ」と言われます。でも、僕は日本でも、中国でも「日本に来たい。日本で勉強したい。」と言ってた中国人を知っています。

台湾は「親日だ」と言われます。台湾に行くと、多くの方が日本人に非常に良くしてくれます。一方、台湾政府は尖閣諸島を自国の領土として主張しています(参考資料

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/pdfs/senkaku.pdf)

 

 僕は、台湾政府や中国政府の方針をどうこう言いたいわけではありません。僕が真に言いたいのは、「反日」・「親日」という言葉がとても「曖昧」で客観性のない使い方をされている言葉だと感じる、ということです。同時に強い危機感を覚えます。これらが与える強い印象によって、一つの国家、地域、民族が持つ多様性が不可視なものになってしまう、と思うからです。一つの国家、地域、民族を一つの言葉で単純化して見てしまうことは、それらが持っている多様性を見えなくしてしまいます。その結果、ステレオタイプな見方が定着し、多様性は消えてしまう、「排除」されてしまいます。以下では、この「排除」は私たちの身近にも潜んでいることについて言及したいと思います。

 

 「非正規雇用」という言葉もある種の排除だと思います。『「正規」ではない』という意味なのですから。「ナマポ(生活保護受給者)」という言葉もインターネット上で使われますし、インターネット上だけでなく、一般市民の生活保護を受給されている方々への目も厳しくなっていると感じます。ただ、皆さんに考えてほしいと思います。今や非正規雇用者の割合は全雇用者の40%を超えました。また、日本の現在の世帯数は約5000万世帯(「平成26年 国民生活基礎調査の概況」より)生活保護を受給している世帯は約163万世帯(「生活保護受給 163万世帯 過去最高に」より)なので、全世帯の約30%にも上ります。これらからも分かるように、社会から「排除」される、スミに追いやられる立場になるということは決して他人事では「決して」ないのです。生活保護に関する報道などの影響からか、「反日日本人」なる言葉もインターネット上では言われることがあります。「ナマポ(生活保護受給者)」や「非正規」という言葉も聞いた時の印象が強く、1人1人の持つ多様性を簡単に無にしてしまいます。「反日」・「親日」と同じ、「単純化」の性質を強く感じる言葉です。

 

 以上のことを踏まえて、私が言いたいことは多様性を念頭において行動することは、国際関係だけでなく、僕自身や読者の皆様1人1人を守るということです。逆に「単純化」を過度に行えば、国際関係だけでなく、自分の身を危うくする、ということです。私たち(特に同年代の若い世代)に求められるのは、多様性を基調とした「想像力」と「創造力」の発揮であると僕は考えます。

 

お読みいただき、ありがとうございました。以下は、反ナチ運動の指導者が書いた有名な詩です。是非ここに載せたいと思います。今回も分かりにくかったところ、蛇足であったところ、突拍子もなかった所等あったと存じます。それらに対するご指導、記事に関するご感想等お待ちしております。

 

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

 

(ウィキペディア「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」より抜粋)

「留学に行くことの意義」とはどういうことでしょうか。 part1

www.youtube.com

こんにちは、こんばんは。

 相変わらず、どんな方が見てくださっているのかわからない(facebookにリンクを貼っていますので、僕の知り合いの方が多いかもしれませんが)ブログを書いていきたいと思っています。

 今回から数回は「留学に行くことの意義」ということについて考えていきたいと思います。

 これは、若干(?)発達障害気味のところがある僕の頭の中に常にあるテーマのようなものです(これからもそうであり続けると思います)。僕と同じような症状とお持ちの方はご理解いただけるかもしれませんが、僕の頭の中では常に複数のテーマが思考されていて、全く論理建てられず思考されています。この状態は、ちょうどバックグラウンドで多くのアプリケーションが動いているスマホの状態と似ていて、意識されずに活動している部分が多いと、いざ脳を動かして活動しようとするときに使えるキャパシティーが著しく不足している、という現象がよく起こります。つまり、私にとってこのブログを書く、ということは私個人にとっては自分の思考を整理し、さらにブログを見てくださっている皆さんと思考を共有できるという素晴らしい方法と言えます。もっとも、このブログを見てくださっている皆さんにとって価値があるものになるかは分かりませんが…、多くの方がこのブログに興味を持っていただけると幸いです。

閑話休題

話が脇道にそれました…。これからもこのようなことはよく起こると思いますので、ご注意ください。それでは、話題に入る前に冒頭の動画のリンクをご覧ください。10分程度の動画ですので、すぐ見えると思います。

 

 

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皆さんはどう感じられましたか?戦後60周年の年のことですので、もう十年前の番組となっています。胸に去来するのはどういった感情でしょうか。悲しみ、怒り、憎しみなど様々あると思います。「そういった感情を持たないで欲しい」と私は思いません。もしろ、日本人であれば「何も感じなかった」とはおっしゃって欲しくないと思います。ちなみに、この映像を見たであろうダウンタウンの松本さんはラジオ番組で号泣しながら怒ったそうです。それも、極めて人間らしい反応だと思います。

 

読者の皆さまの中には、『「原爆」と「留学」はどのように関係があるのか、よく分からない』と仰る方がいらっしゃるかもしれません。以下は、その疑問について考えたいと思います。

 先の動画の中で皆さまはどの部分が印象に残りましたでしょうか。私は、被爆者の方と原爆を「開発・投下・撮影」した博士の対談の部分でしょうか。全体的に画面の中にいる三名の話はかみ合っていません。私は、この対談は非常に意義深いもの、一つの兵器の開発者と被害者が対話をすることができたという意味で、だと考えていますが、コミュニケーションが上手くはいっていなかった、と思います。この「コミュニケーション」は「The imparting or exchanging of information by speaking, writing, or using some other medium」(oxford english dictionary)と定義されています。つまり、「言うなり、書くなり、他の何らかの方法を用いて、情報を伝えたり、交換したりすること」となります。この「コミュニケーション」は「留学」について考えるとき、とても重要だと考えています。この動画は異なる歴史的、文化的、教育的背景を持った人々が一つの価値を共有することがどれだけ難しいか、ということについて。ましてや双方とも加害者であり、被害者である状況ではさらに難易度が増すことを示していると思います。

「留学」という言葉からは、この「コミュニケーション」というイメージはなかなか浮かんできません。日本での「学び」が「コミュニケーション」とリンクする言葉として認識されていない背景もあるかもしれません。しかし、留学に行ったからといって生活リズムが変わるわけではありませんし、私たちが日常行う買い物や雑談等の行動は依然として留学生活に存在します。どれだけ勉強する人でも、一日数時間はそれら大小の規模の「コミュニケーション」を行う機会があると思います。異なる歴史的背景、文化的背景を持てば、異なる価値観が生まれます。その「価値観の交換・伝達」が僕のいう「コミュニケーション」なのです。「JAP」としての日本、「日本鬼子(中国で使われる日本人への蔑称)」、「YELLOW」(黄色人種)などの価値観を相手から提示された時、私達が国内では触れることが極めて少ない「侵略者」としての日本の姿を提示された時、日本語であろうが、中国語、英語、フランス語などの外国語であろうが、またその口調が流暢であろうが、たどたどしかろうが、意見を正しく伝達し、相手の価値観と自分の価値観を交換することが「コミュニケーション」の本質です。

 こうした日本ではなかなか触れることができない、意見や価値観に触れる経験をすることが語学などの測定可能な結果と時には並ぶほど重要な意味を持ってくると思います。語学力、言語能力はあくまでそれらを伝える「道具」にすぎないのです。

 

 今回は、「価値観」、「コミュニケーション」というキーワードから「留学に行くことの意義」について考えました。まだまだ書き足りていないこと、説明不足なことはあると存じますが、コメントでご意見を頂ければ幸いです。

こんにちは、はじめましての方は初めまして。

こんにちは、こんばんは。

私は俗に「stars」と呼ばれる国立大学の一つに通っている大学生です。(この「stars」については先日友達から聞きました。)

最近は、ツイッターフェイスブックなど、SNSが凄まじい勢いで生活に浸透していますね。

私もそれらを使わせていただいているのですが、如何せん情報量の多さに全く使いこなせていないのが現状です。

「ブログ」というものにも、それほど関心があったわけではなく、かなり突発的に開始しているので、不定期な更新になると思います。

さて、「いったい何を書きたくてこのブログを始めたのか」といえば、ひとえに心の中に色々浮かんでくることを勢いに任せて書きたいな、と思っています。

話題もかなり多岐に渡ると思います。趣味(留学までした)中国語をはじめとする、中国に関する話、日々の社会情勢に関する意見、疑問、もう一つの趣味である写真について、学習中の広東語、英語について。

先ほど、「心の中に色々浮かんでくることを勢いに任せて書きたいな、と思ってい」ると書きましたが、そのため、SNSのような当たり障りのないことだけを書くのではなく、自分の意見、ドロドロとした感情を出していきたいと思います。

それは、特定の人、団体を中傷する、という意味では決してなく、「主張する場」としてこのブログを進めていきたいと考えています。

皆さん、よろしくお願いします。

プロフィール
職業:大学生(一年休学)
趣味:読書、中国語、(得意ではないが)英語、サッカー関係
注意:用法・容量を守って正しくお使い下さい。誹謗中傷以外のご意見をどんどん募集しています。コメントよろしくお願いします。