『「しわ」を見て欲しかった』

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  拝啓 三浦春馬

 一度もお会いしたことがないのに、また突然にお手紙差し上げるご無礼をお許しください。

 30歳で亡くなったあなたは私のお兄ちゃん世代の方で、テレビを見ると良くお姿を見ていました。

 この度の弔事に伴って、このお手紙を書くことができます。生前には思いもしなかったことです。先に感謝申し上げます。

 私はあなたが許せません。どうして先に楽になってしまったのか。どうしてそんなに簡単に人生を諦めたのか。「これから先もっともっと苦しいことがあり得る」ということからどうして逃げてしまったのか。最近流行りの芸能界からの「卒業」もできたと思います。確かに有名なあなたが芸能界から卒業しても注目は浴びるでしょう。そして様々な人から忘れられるでしょう。つまり「これからの人生で予想される全ての困難が受け止め切れない」、もしくは「それらの困難とこれから予測される幸福が釣り合わない」から自殺されたのではないでしょうか。私はそれは「逃げ」だと思います。だから今はあなたを許すことが出来ません。

 このビデオを見てください。この「しわ」はこれから苦しいことがずっと続くと分かっていても、なるべく明るく、なるべく頑張って、そして強かに人生の最後の時間を過ごす人々が描かれています。私もこの人たちのように無名で、死んでもすぐに忘れ去られる一個人に過ぎません。それでも、気持ちの上では岩にしがみついて何とか毎日を生きています。

 あなたの自殺は残念です。毎日死ぬことを考えていたあの頃に戻されるような気がするからです。完全な八つ当たりです。本当にすみません。

 そちらは時間がたっぷりあるでしょう。あなたからこの「しわ」の感想を聴ける日を楽しみにしています。

敬具 とあるうつ病患者より 三浦春馬様、そして全ての真剣に死を考えた方々へ。

映画「僕はイエス様が嫌い」感想(ネタバレ有り)

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≪謝辞≫
この映画を作られた奥山監督並びにスタッフの皆様へ最大限の賛辞をお送りいたします。
日本というキリスト教徒が少ない国で真正面から「神の沈黙」という大きな課題をテーマにされ、映画を作成し、公開されたことはとても情熱のいることと思います。

今回の評論は肯定的な感想のみではありませんが、大前提として皆様への深い感謝があることをお心に留めていただければ幸いです。

 

≪STORY≫

「祖母と一緒に暮らすために、東京から雪深い地方のミッション系の小学校へ転校することになった少年ユラ。日々の礼拝に戸惑うユラの前に現れたのは、小さな小さなイエス様だった。他の人には見えないけれど、願い事を必ず叶えてくれるイエス様を信じ始めたころ、ユラに大きな試練が降りかかる…」(公式サイトより引用)

≪感想≫

  • 場面設定

主人公の「ユラ」くんは小学5年生という思春期の入口で親の転勤のため住み慣れた東京から雪深い田舎町に引っ越してきます。また、性格は大人しく、「大人の求めている答え」を知っている1っ子です。

 

引っ越した先は木造校舎のミッション系の学校でした。朝の挨拶の後、礼拝のため皆は礼拝堂へ行きますが、ユラくんは「どうすればいいのか」、「これから何があるのか」分からず礼拝のための聖書も持っておらず、先生から貸してもらいます。

 

これらの描写からユラくんの不安感や慣れない環境への戸惑いが分かります。

 

そして、聖書のイエス誕生の部分が礼拝堂で読まれます。この日の前日の夜に越して来たばかりで翌日の朝初登校したユラくんは「イエス」のオマージュであることが分かります。

 

ここまでを纏めると心理描写、状況描写から繰り返しになりますがイエス≒ユラくんであり、さらに言えばユラくんに何らかの受難が襲い来るメタファーにもなっています。

 

《ユラくんへの救いと受難》

新しい環境に戸惑ってしたユラくんに「ヒーロー」が現れます。クラスの人気者で、勉強も、スポーツも出来て、しかも優しい友達、ダイチくんが現れます。この辺りのシーンは「万引き家族」なんかでも見られたパン画面でのショット、子役の自然な演技(もはやそこで普通の友達が遊んでいるとしか思えないほど)序盤とは明らかに違うユラくんの表情など本当に素晴らしいものばかりでした。

 

上記の数々を「救い」と言えるなら、ここからは「受難」の物語があります。ある日、体育の授業でダイチくんにやられてばかりだったユラくんは思わず授業を抜け出し学校を早引けしてしまいます。優しいダイチくんはユラくんの様子を見にユラくんの家へ「サッカーボールを蹴りながら」向かいますこのシーンは遠くから小さな交差点が何本もある道を「遠くから」ダイチくんが走って来ます。正直、もう嫌な予感しかしません…。案の定彼は軽トラックに追突されてしまいました…。間も無くユラくんにとってはもしかしたら最初の「親友」と呼べる存在はこの世を去ってしまいます。

《ユラくんの「答え」》
ダイチくんとのお別れ会の日程がきまり、ダイチくんの母親からの希望で弔辞を読む事になります。

そして、当日、ダイチくんの両親は父親は仕事で来られず、それまでの登場シーンでいつもニコニコしていた母親のみが悲し過ぎて涙も出ない、そんな表情で参列しています。そこでユラくんは弔辞を読み上げ、聖書に手を着いて祈ろうとする時、イエスが聖書の上に現れます。イエスそれまで何度も登場し、ユラくんの「友達が欲しい」、「お金が欲しい」などの願いを叶えました。しかし、「ダイチくんを救って欲しい」、と願ったとき、イエスは現れませんでした。そして「全てを失った後」再び現れたイエスをユラくんは握っていた拳を思いっきり振り下ろし、彼を消し去ります。

《結末について、「神の沈黙」》

ラストシーンは最初の過去シーンで現在はすでに亡くなっているおじいちゃんがしていたように障子に穴を開けてみたユラくんは、おそらく学校の校庭を見、ダイチくんと遊んでいた日々を思い出し、彼が救われたことを暗示していました。

ユラくんは、救われたのです。
でも、ダイチくんのお母さん、クラスメイト、先生はそのままです。

もちろん、敢えてそういう登場人物を絞ったラストにすることもいいです。だた、「10,11歳の少年の成長」を描く描写としては少しうすいと思います。

ベッタベタのコッテコテのラストでいいなら、ユラくんが涙すら泣かせなくなったダイチくんのお母さんを抱きしめるのはどうでしょうか。

「1人しか救えなくても、もう誰も救えていないイエスや教会よりマシだ」というメッセージになりますし、聖書を引き裂いてもいいと思います。

もちろん、それらの隣人を愛する描写が「善きサマリア人の例え」のようなキリスト教と不可分な要素を内包するので、奥山監督がそれを良しとされなかったのかも知れません。

いづれにしても、それまでの描写がよかったために「もったいない」と思わせるエピローグでした。

このブログをご覧になった方でこの映画を見られた方は、コメント等いただければ幸いです。

「約一年前の僕自身へ」

 どう書き始めようか。

 

|ω・`)ノ ヤァ2017年1月31日の僕。

今君は大学生活で最も力を入れて取り組んだ卒業論文を提出し終わったところだね。

まず、おめでとう!! 物足りなく思っている部分もあるだろうけど、僕は君が苦しみながらやり遂げたことを知っている。
これでもう心置きなく会えるあの女のことや当日偶然駅で会ったY先生のことを思い返しながら、これからの未来に(正直大きな不安がありながら)向かっていこうとしている君を僕は応援しているよ。

 

今この部屋の写真を撮った。 この写真からすべてを把握できるほど物分かりがよくないことはよく知っているけど、なんとなく君が思い描いた未来、いや希望していた未来とはGapがあることはわかってもらえると思う。

 

君がもし今の僕自身を見た時、どう感じるんだろうか。なんとなく既視感はあるかもしれない。また、ある程度予想していた未来だったとしてもそれでも君は僕と同等、あるいはそれ以上に悲しむかもしれない。

 

今日は君にいいニュースだけを伝えて終わろうと思う。

 

それは何とか僕は今日まで生きてることだ、そしてとにかく生き続ようと思っていることだ。

 

それでは、また逢う日まで。

「君の名は」について-感想-

 盛大にネタバレを含みますが、この二日間考えた、「なんで僕はあの映画を見たとき感動できなかったんだろう」というということについて書きます。

 

ネタバレ含みますので、行を開けます。

 

 


「君の名は。」予告2

 

なぜ景色を覚えているの?

 主人公の瀧くんは、三葉ちゃんと入れ替わっているときに見た景色をイラストとして画き溜めます。三葉ちゃんと入れ替わっている間の体験を忘れたくないということからの行動だと思います。

 

 ただ、最も初期の設定で「入れ替わっている間の記憶は薄れていく」という設定があったと思います。もちろん、それを防ぐために二人は「交換ノート」をつけるのですが、「交換ノート」に村の景色についてあんなに詳細に記録されているとは思えないですし、名前を忘れてしまうぼど曖昧な記憶で、あんなにも完成度の高い絵が描けてしまう理由が分かりませんでした。

 あの瀧くんの絵は、時を隔てた彼らを「出会わせる」ものなので、そこがどこが腑に落ちず、引っかかってしまいました。

 

「結び」がつなぐもの

 この物語のキーワードの一つは「結び」かなと思いました。「つながり」とも言い換えることができると思います。これら二つの言葉はかなりにていますが、少し違うと考えています。これは僕の考えですが、「結び」とは自然的なもの、非人間的なものへの「畏れ」がよく強く表れた言葉だと思います。つながりは「断つ」ことができます。イメージとしては「糸、ひも」のようなイメージだと思います。でも、「結び」はほどくことはできますが、ほどいても「糸、ひも」のようなつながりとして残ります。「結び」は簡単には断ち切れないのです。簡単に断てる関係は例えば、モノを捨てたり、恋人と別れたりすることかもしれません。一方、簡単に断てない「結び」は家族、親戚、あるいは自然の恩恵と脅威、もしくは神仏とのつながりがあるでしょう。一旦まとめると、

「つながり」…「糸、ひも」のような関係。比較的俗世的。

「結び」…「断とうとしてもなかなか断てない」関係。超自然的なものに多い。

 

僕はあまり二項対立的な整理は好きではないので、断っておくと、私たち1人1人が人・あるいはものと持っている関係はこのような単純に分解できるものではありません。1人1人にとってどんな関係が「つながり」であり「結び」なのかというのは異なりますし、その時々の状況によっても違います。厳格に「つながり」、「結び」を定義するのは無駄ですし、ある意味危険だとも感じます。

 

 ところで「結び」の発生と喪失についてもう少し考えたいと思います。「つながり」との大きな違いは、それが生まれる時と失うときが自分ではコントロールできない場合が多いことです。私たちが変えたくても変えることのできない「どこで生まれ」「いつ生まれ」「誰と出会い」「いつ死ぬか」ということは自分ではコントロールできません。まるで「神」がいるかのような、私たち1人1人と世界との「結び」です。喪失する時も、自分ではそうした「結び」は制御しようがありません。

 瀧君の「生」と三葉ちゃんの「死」も「結び」です。通常死んだ人間は復活しません。人間はそうした「結び」が存在することを受け入れ、しかし抗ってきました。物語で出てきた「ご神体」は「あの世」と「この世」の境は、人々がそれらを受け入れながらも、それらが出会えるという「物語」を作り出すことで少しでも希望をもって生きられるように聖地が作られるのだと思います。

 

 なにが言いたいかというと、「三葉ちゃんは死んだままでなければならなかった」ということです。事故、三ちゃんの死など葉理不尽な「結び」がすべて無かったことになってしまうことは、「僕達はなんでもできる」という間違ったメッセージを発信してしまうことになるかもしれないと感じます。新海誠監督がそれを意図されたかは分かりませんが、本作の重要なテーマであると感じた、つながりや結びが全く同じものであるかのように扱われているのは、少し残念でした。

 

好きだったところ

かわいい(三葉ちゃん大正義www)

言の葉の庭」の先生らしき教師登場!!「正直一番ビックリ(笑)」

映像がとにかくきれい。

田舎に住んでいる僕から見ても納得できる田舎(暗黒面)の描写(選挙、「守るため」の伝統、閉鎖的なコミュニティー(地域・学校等)」

 

終わりに

 新海監督の作品を拝見するのは三作目です。(「秒速」、「言の葉の庭」、本作)

SFも書かれる監督ですが、

前二作のあまりファンタジーっぽくないストーリー展開や雰囲気を期待していたこと

事前のインターネット上でのかなりの高評価

映像表現に対する慣れ

 

 から、細部のもしかすると主要なメッセージではない部分にまで注目して見てしまった可能性はあると思います。友達からは「違う映画みたでしょ(笑)」とも言われましたが、自分でもなんだかそんな気分です。そのため、自分の意見へのコメント、反論はどんどんしていただきたいです。

 よろしくお願いします。

 

最後に、新海監督はこれからの日本アニメ界の巨人となる方です。

次回作も楽しみにしたいと思います。

「わからない」と言う

就活の中で一番不可解なことは「わからない」と言えないことだ。

 

「10年後のあなたはどうなっていると思いますか。」

 

「あなたの長所はなんですか。」

 

様々な質問に「わからない」とは言えない。

 

「わからない」ことは悪いことなのだろうか。

 

世の中は「わからない」ことだらけなのに。

 

分からなければいけないのですか?

「就活」とぼく(散文)

「就活」をしていると、「やっぱり」と思うことがある。

 

自分は「やっぱり」アウトサイダーだと。

 

僕の友達には何人もアウトサイダー「気味」な人間はいる。彼らは自由を求めている。だからアウトサイダーっぽく見える。

でも彼らはなかなか世の中を知っていて、そこでしたたかに生きていく道を知っている。

 

でも、僕は本質的な「アウトサイダー」だ。

物分かりが悪いほうではない。素直なところもある。

 

ただ、頑固なところがある。不利になると分かっていても自分を曲げない。曲げたくない。

不器用なのだと思う。

 

「就活」は楽しい。今まで知らなかった企業や、大人の方々と話せる。わざわざ企業の紹介をしてくれる。

行ったことはないけど、なんだか万博みたいだ、と思うことが有る。

 

一方で、僕の頑固なところが葛藤を生む。

僕はあまりにも考えすぎる。

だから「就活」とはなんとなくそりがあわない。

たとえるなら、会った瞬間に「なんだかこの人とは合わない気がする」と感じるあの直感に似ている。

 

こんなことをGWに考えている。

 

 

「想像」と「創造」と「イノベーション」

 こんにちは、こんばんは。

 

 まず初めに、このブログを御覧になっている皆さまにお詫びしたいことがあります。前回までのブログで『僕が「発達障害」的な部分がある』という旨のことを書かせて頂きました。私の同級生から

 「安易にそのような文言を使えば、障害の当事者並びに、当事者の親御さんや親せきの方々を不快にさせてしまう恐れがある」

 

という指摘を受けました。

 私も「あまりにも簡単にこの話題に触れすぎたのでは」と反省しています。もし、不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、大変申し訳ありませんでした。釈明させて頂けるならば、自己判断のみに基づいた記述ではないことは明記させて頂きます。ただ、このことを自分の周囲の方々には全く話していなかったこと、また、私自身も自分のそのような一面について真剣に考えるようになったのは、本当にごく最近であることなど、から自分も皆さま(特に知人・友人)がびっくりされたことはあると思いますし、私自身、知識が足りない中、軽率な行動だったと感じております。自分の文章構成の拙さへのコンプレックスがあり、その言い訳をして使ってしまった部分は否定できません。今後は、「発達障害」関係の話題を不用意に取り上げないことを心がけますので、ご了承頂きたいと考えております。

 

 さて、今回のブログの内容に入っていきます。今回は「イノベーション」という言葉から話を展開していこうと思います(この言葉も常々僕の頭の中にあったものです)。「イノベーション」は元々英語の「innovation」という言葉です。日本語ではよく「イノベーション」を「技術革新」と訳してします。しかし、大学での授業を受けるにしたがって、この「技術革新」というこの単語に対する解釈は適当なのか、という疑問が沸いてきました。そこで、今回このブログを書くにあたって、平成18年度版の科学技術白書から「イノベーションとは」(参考文献:平成18年版 科学技術白書 コラム目次 07−文部科学省)という文章を拝見しました。これによると、イノベーションは、

 

イノベーションという言葉は、オーストリアの経済学者シュンペーター(Schumpeter)によって、初めて定義された。その著書「経済発展の理論」の中で、経済発展は、人口増加や気候変動などの外的な要因よりも、イノベーションのような内的な要因が主要な役割を果たすと述べられている。また、イノベーションとは、新しいものを生産する、あるいは既存のものを新しい方法で生産することであり、生産とはものや力を結合することと述べており、イノベーションの例として、1創造的活動による新製品開発、2新生産方法の導入、3新マーケットの開拓、4新たな資源(の供給源)の獲得、5組織の改革などを挙げている。また、いわゆる企業家(アントレプレナー)が、既存の価値を破壊して新しい価値を創造していくこと(創造的破壊)が経済成長の源泉であると述べている。

*1

 

 イノベーションとは、新しいものを生産する、あるいは既存のものを新しい方法で生産すること」である、と定義されています。一方、シュンペーターは「イノベーション」の例として

 

1創造的活動による新製品開発

2新生産方法の導入

3新マーケットの開拓

4新たな資源(の供給源)の獲得

5組織の改革

 

などを挙げています。僕はこの二つを見比べた時、やはり疑問を感じます。特に5の「組織の改革」に関しては、もちろん技術革新を直接目指した組織改革もあるでしょうが、それ以外の方法、例えば、事務処理の効率を上げるなど、して技術革新のための金銭的、時間的余裕を組織に作る、という改革の形も考えられます。前者に比べて、後者の改革は「モノ」的な生産とは結びつきにくい、1つのアイデアです。また、「新生産方法の導入」も元々は1つのアイデアであり、それを取り込むことによって起こります。それらから「イノベーション」という概念は、「技術」という「モノ」的な観点だけに限らない、もっと多くの要素を含んだ言葉なのはないかと考ました。

 

 この「イノベーション」は元々英語の概念なので、Oxford Advanced Learner's Dictionaryを参照しました。

 

「innovation」…The action or process of innovating*2

 

これらを参考にするとイノベーション」とは、「革新、刷新(innovating)の過程ないしは行動」となります。先ほどの文科省の定義である「新しいものを生産する、あるいは既存のものを新しい方法で生産すること」とは少し異なる概念としての「イノベーション」が見えてきたと思います。このようにして考えると「技術」という限定された枠だけでなく、より広いという枠組みで「革新、刷新」という言葉が捉えられると考えます。また、「技術」という言葉から感じられる「モノ」的な側面も「革新、刷新」という言葉でより「ソフト」な方向にも考えやすくなります。「スマートフォン」という機器の出現も大きなイノベーションですが、これの元となっているソフトウェア、半導体など、この中に組み込まれている1つ1つがイノベーションによって生まれていることがわかります。こうしたイノベーションは不連続的に生まれたものですが、それらが偶然1つの「スマートフォン」などの大きな形として私たちの前に現れます。私たちが認識するころには、「モノ」という形になって出現しますが、実際には連続性を持たないイノベーションの集合体です。連続性を持たなかったイノベーションがが連続することで新たなイノベーションを起こす「母体」となるのです。イノベーションはこうした「不連続性」と「連続性」を併せ持った不思議なものなので、非常に興味深いと思っています。今、「繁栄」という本を読んでいるので、読み終われば、こうしたイノベーションの特徴についても再度記事を書きたいと思います。

 

 では、「イノベーションを起こすには、何が必要だろうか」と考えます。それは、「想像」と「創造」だと僕は考えます。これはもしかしたら、以前ブログで同じことを書いたかもしれません。おそらく、「想像」と「創造」は僕にとってのキーワードといえるかもしれません。「想像」と「創造」は本来全く違う概念で、先述した通り、本来、不連続的です。かの手塚治虫氏が「鉄腕アトム」で未来の日本の姿を描いた時、時の科学者はそれにそった実験をしていた訳ではありません。しかし、「神の見えざる手」に導かれたように、手塚氏の「想像」と科学者の研究結果である「創造」は(全く同じではないにしても)ほぼ一致した形として私たちの社会に現れてきています。今僕は「神の見えざる手」というアダム・スミスの有名な言葉を使わせて頂きましたが、一見導かれたようなこの奇妙な一致は、

『「想像」と「創造」の結合』

という人間の重要な特徴を表していると考えます。

 

 人間は、この『「想像」と「創造」の結合』を果たしたことでここまで発展したのだと考えています。本来全く異なる概念であるこの2つを私たちは知らず知らずのうちに、文字や言語、絵などの手段によって共有し、「想像」と「創造」という2つの概念を絶えず不可分なものにしようと奮闘してきたのです。もちろん、元々は完全に違う概念のため、完全に一致させることは出来ませんが、絶えず一致させようとした結果が現在の人類の繁栄につながっていると考えます。

 

 まとめると、「イノベーション」とは、「革新、刷新(innovating)の過程ないしは行動」である、という定義を改めてここに提示し、「革新・刷新」を『「想像と創造」の結果』であるとすると、「イノベーション」は単なる「技術革新」を指す言葉ではなく、「人間が繰り返してきた発展のための過程である」と捉えれば、「技術」という言葉に縛られない、新たな「イノベーション」像ができると考えます。

 

 最後になりましたが、今回は「想像」と「創造」、並びに「イノベーション」という言葉を使って考えました。正直、自分の文章力の無さを書きながら痛感しておりますが、シュンペーターの主著を始め、より自分が「イノベーション」ということについて理解が深まった際に、この話題については取り上げるつもりですので、今回はこのくらいの議論で締めくくりたいと思います。ご不明な点、反論、感想、疑問等々ございましたら、どうかコメント、ないしfacebook上にメッセージをお寄せください。

 

今回もお読み頂き、ありがとうございました。

*1:平成18年版 科学技術白書 コラム目次 07−文部科学省」より

*2:Oxford Advanced Learner's Dictionary」より